2017/4/22 「元気で、いや元気じゃなくてもいいから、またね」

f:id:Ikirkashinu:20221105145544j:imageという昨年のナゴヤドームでのライブで、去り際に放たれた藤原基央のことばを思い出しては今日も元気でいられるな。去り際に放たれてこんなにも元気になったことば、これ以上のものをわたしはまだ知らない。

機種変更した。メールや画像、電話帳は残っているけど、ラインのトークやメモは全部消えた。儚さなんて微塵も感じさせない、この世に何の未練もないかのようにあまりにも綺麗に消えていった。少し寂しかった。中には残しておきたいと思っていたものもあったから、思い出せる範囲でまた記録しようかと思ったけど、ほとんどは思うだけに留まった。結局その程度だったのかもしれない。或いはわたしの血となり肉となったと思おうか。骨にもきっとなったね。忘れたって消えやしないもんね。BUMP OF CHICKENのrayのようにいきようね。

忘れないなんて無理だなあと諦めるようになった。代わりに、思い出せたらいい、忘れてしまったのなら、それらは全部消えたんじゃなくてわたしの血となり肉となったのだ、と考えるようになった。わたしがこころの底から楽しくて笑っているとき、誰かはこころの底からかなしくて泣いていることをふと思い出してはそのたびに、心臓にサボテンの針が刺さったかのように、微かだけど確かに痛む。そして刺さった針はもう二度と抜けることはない。今の心臓はとげだらけだけど、サボテンのような様だからまだまだ刺さる。ひとから見たら黒ひげ危機一髪状態で、全然刺さっていないかつ、刺さるところがもうないように見えるかもしれない。もしかしたらわたしの思い込みで、本当にそうかもしれない。所々サボテンの針じゃなくて、裁縫用の針とか栓抜きとかノコギリとかも刺さってる。きっとこれからも増える。多分死ぬ頃には心臓は、ウニを越えていびつな形をするマリモになっている。サボテンのまま、あるいは黒ひげ状態でしぬかもだけど。

だからどれが、どんなときに刺さった針なのか、どんな痛みを感じたのか、感じなかったのか、色んなことが思い出せなくて、わからなくなる。思い出せるものと、そうでないものがある。忘れることのできない、と思っていたけど、実際は忘れている。時々何かを引き金にして、或いは何の引き金も前触れもなく突然思い出すのだ。ずっと頭の中心にあるわけじゃなく、それぞれがあらゆる片隅に留まっている。それが中心に移動してきて思考の大部分を占めることもあって、とても厄介なときがある。まあわたしが片隅に引っ張られて思考の大部分を占めることももちろんあるけど。というかもしかしたらそれがほとんどなのかもしれない。中心にいるのに片隅に引っ張られるあまりに、わたしに気がつかれないものもあるんだろうな。ごめんな。

それでもいつかは引っ張られなくなり、或いは忘れることができるくらいいつの間にか片隅に目立たないように留まるようになる。思い出せるものは片隅に留まり続けるけど、中には片隅からもいなくなっているものもある。わたしに気づかれないよう、跡形もなく、たったひとりで。

わたしは時々それに気がついては、こころに新たな隙間がうまれる。気がつかないままいなくなっていることそのものに、気がつかないこともある。その正体はわからないけど、いなくなっていることに、多分さびしいと感じている。それがどんな正体だったとしても。

思い出せなくなったとしても、刺さった針はもう二度と抜けない。痛みを感じなくなったとしても、確かに痛んだ事実は消えない。全部全部わたしには必要なもので、わたしを支えてくれたもので、わたしという個体を構成してくれたものにかわりはなく、いとおしさすら感じる。

いきるって針の刺し合いだな。できることならひとに針なんて刺したくないけどな。でも気づかず今日までたくさん色んなひとに針を刺してきてしまったんだろうな。もう過ぎてしまったことで気にしてもしかたがない、これから気を付けたらいいと思いはするけれど、やはり時折思い出す。たくさん針が刺されば刺さるほど丸に近くなるけど、鋭さは増す。年をとるってそういうことなのかもな。丸くなるようで、鋭くなる。というかマリモって丸いけど別に鋭くないよな。何かないかな。というかマリモってただの丸なのに可愛く感じるの何でだろうな。可愛くない丸もあるのにな。マリモになりてえな。丸って集合すると凄まじい恐怖感と威圧感をこれでもかと醸し出してくるの、不思議じゃない?多分宇宙5678大不思議のひとつだよ。

サボテンの針は、砂漠でいきるサボテンにとって必要不可欠なものだ。きっと似たようなものなんだと思う。わたしの針も、いきるためにきっと必要不可欠なものなんだと。針が刺さらなければ痛みは知らずに済んだかもしれないし、知らなくていいものもあったかもしれない。というかある。それでも針が刺さらなければ出会えなかった痛みと、それを通してしかうまれない感情と出会えたことに、わたしは確かな幸せを噛み締める。楽しいときは楽しいままに、かなしいときはかなしいままに、そのときうまれた素直な感情を素直なまま、全部大切に受け止められたらいいな。まあ全部はまだ無理かもわからんな。でも肯定はできる。


4月は、シンクロニシティとアフターアワーズというイベント、サカナクションのライブに行った。特にシンクロニシティとアフターアワーズは本当に本当に本当に最高で、二日間で約20組観た。昼から酒を片手に好きなアーティストばかり観れる最高極まりないイベント。ただ被りすぎていたために小まめに時間をチェックしながら移動していた。あまり座れず夜には腰が泣いていた。膝ではない、腰だ。笑うんじゃない、確かに泣いていた。そして泣く泣く諦めたアーティストもたくさんいて、あの二日間ばかりはわたしをあともう四人欲しいと3547966315331回こころの中で叫んでいた。最後に観たBoris、ライブ終わりに自分がいぶりがっこになっている未来が容易く想像できるくらいスモークが凄まじい量で、わたしの中に残る印象として鮮烈すぎた。凄い。THE NOVEMBERSは観るたび「はあ好き…」と1億回ため息が出るし、一番楽しみにしていたROTH BART BARONは目の前を滲ませながら野外で聴きてえと1億回叫びかけたし、downyは後ろの映像になりてえが思考の大部分を占めていた。頭がほどよく回らない状態で音楽を浴びるの、至高。

サカナクションも最高だった。3回目だったけど、一番近かった。相変わらず本当に楽しい。我を忘れて踊ってしまうライブナンバーワン。「夜」と言えばこのひとたちだなあ、好きだ。グッズも買うつもりなかったのに、600円ぐらいで買えるはずの写るんですを2500円払って買ってしまった。一瞬躊躇いながらもまあ可愛かったので仕方ないゆるす。撮るの楽しみだなあ。今のフィルムを撮り終わるのにまだ時間がかかりそうだ。次は今年2度目のTHE NOVEMBERSと念願のシガーロス

木々が、淡いピンクを纏うようになっていた。立ち止まり、見上げるひとがたくさんいて、そうそうこの景色がいいんだと毎年ひしひしと感じる。桜そのものより、ひとが桜を見て写真を撮っていたり、桜の木の下のベンチで談笑していたりする様子を見るのが堪らなく好きだ。それを見るたび胸に込み上げてくる形容しがたく、指の間をするりと抜けてしまうようなつかみたくてもつかめない感情に、相変わらずもどかしくなって戸惑う。でも感覚としてはひだまりのようで、とても心地が良い。東田直樹さんの、桜の話を思い出す。多分わたしもきっとずっと、桜が好きなんだろうな。

2017.4.22