2017/5/1 まさに世界の終わり、たかが世界の終わり

木々が淡いピンクを纏うようになったと思ったら、少しくすんだピンクと、対照的なみずみずしく鮮やかな青を纏うようになっていた。ああ杜の都仙台のうつくしく爽やかな季節が来るなあと少し恋しくなる。あの欅の葉の隙間からこぼれる暖かな日にあたりながら歩きたくなるな~もっと欲を言えば寝転がりてえな~でも毛虫とか鳥の糞とか落ちてきたらめっちゃ嫌だな~

たかが世界の終わり」を観た。フランス映画特有の、あの気だるさと映像のうつくしさが本当にたまらない。87%の確率で眠くなる。音楽も凄まじく良すぎたのでサントラ買おうかと思ったけどタワレコ今なくなってんだわ東京のタワレコ分けてくれ頼む足りてるだろ

それらとはまるで対照的に、映画の中の家族が激しくぶつかり合う様が冬の海のようだった。激しいだけじゃなくて、時々静かだけど寒さはとても厳しい。でも、何故かその中で時々ひだまりができる瞬間が確かにあって、それが絶妙で痺れた。もしかしたら見逃してしまった瞬間もあったかもしれない。多分あのひだまりは、家族といった、遠くて近いような、近くて遠いような、わかり合えるようでわかり合えない、そんな微妙な距離感の間にしかできないものなんだと思った。かたちはいびつで、わかりにくいのかもしれないけど、多分、愛とも言えるんだろう。

主人公の台詞が少ない。そのぶん表情、特に目の表情からひしひし、じわじわ一滴ずつ滴り落ちてくるものがあった。そしてその一滴全て浸透率が高くて、終わる頃にはわたしは化粧水が染みたコットンみたいにひたひたになっていた。だから登場人物全てから滴り落ちてくるものを、わたしは受け取りきれなかった。

大体映画を観終わるとこんな感じになる。でも、これまでひたひたになったらほとんどはわたしの中に染み込まず、蒸発する。染み込むのはほんの一握りで、もったいないなあと思ってしまう。だから受け取ったぶんだけでも、どうにか一滴もこぼれ落ちてしまわぬようにわたしの中に染み込ませねばと、こうして文章にしている。でも中々ことばに直すのは難しい。

わたしの中に染み込んだ一握りの映画を大切にできるなら、そういうものと出会えたのならこのままでもいい、とも思うけど、映画を通してしか出会えないものがたくさんあることを知ってる。本や音楽なども然り。

そういう出会いを逃してしまいたくないから、それよりも忘れたくないからがきっと正しい。呼吸や瞬きしていることすら忘れてしまうのに、忘れないなんてきっと無理だ。思い出せたらいいと考えるようになったけど、それでもやっぱり諦めたくない。せめて忘れないようにじゃなくて、忘れても構わないように、思い出せるように材料は残しておきたい。メモをとるってそういうことよね。メモしたことも忘れるんだろうけど

忘れたくないと思えること、ものに出会えた喜びを、深く深く噛み締めることができるようになった。それでも「忘れたくない」という気持ちは本当に正直なもので、無視できない。それも大切にしたいなあ。いきている限り、そのときそのときうまれる裸のままの感情や思いを、わたしも素直に迎え入れたいな。イエーイウェルカム。

2017.5.1