2023/1/21 自分と別れられない事実に何度も絶望する

秋田、宮城、NZ、静岡、北海道、埼玉と転々としながら突きつけられる現実に飽きもせずに絶望する。分かりきっているはずなのにどこか期待を寄せていたのだろうか。大嫌いな自分とどこかで別れられるだろうか、と。

 

死なないと無理だ。それも分かっているから、いつも死にたいと思っている。死にたいと思うのは、自分と別れたいと思っているからなのだろうか?それが出来たら、わたしは本当に期待通り、楽になれるのか?


無理だろう。だってわたしが生きている現実も見えている景色も変わることはないから。それもわかりきっていることだ。ずっと前から、ずっとだ。それなのに、生ゴミにたかるコバエのごとくしつこく自分と別れたがる自分に、ほとほと自分でも嫌気が差す。


自分自身に執着してるのは自分だ。じゃあ執着しなければ楽になる?聞こえない自分を意識したくなくても、嫌でも意識せざるをえないほど聴者中心の世界で、どう生きていけば意識せずにいられる?


自分と離れられる瞬間がある。そのときだけ、本当にその間だけ、楽に息が出来る時間がある。そういう瞬間や時間を積み重ねながら、そうして生きる余力を得ながら、今日までどうにか生き長らえている。


最近はまた語学学習が楽しくなって毎日韓国語、中国語、アラビア語時々英語をしている。ハマって少し離れてまたハマってを繰り返しながらどうにか続けてきたら、韓国語を通して見える世界が煌めいて見える。


わかる瞬間をひたすらに欲している気がする。貪欲にただ焦がれているのだろう、わかりたくて知りたくて、学べば学ぶほど、その瞬間を積み重ねることの出来る語学にのめり込んでいるのかもしれない。


きこえなかったことを、知ろうとしなくなってしまった。きこえなくてわからなかったことを、寂しいとも感じなくなってしまった。その事実はただ事実で、別に特に悲しいとも思わない。


ひたすらに面倒でどうでもよくて、そうして感情は失われていくのかもしれない。死にたいと思う今はまだ、感情が生きているままなのだろう。死にたいと思わなくなったそのときが、わたしにとっての本当に死んでしまった瞬間なのかもしれない。


目覚めている全ての瞬間が労働、本当にそうだな。「私の解放日誌」、イライラもどかしくなりながらも、合間合間に雲の隙間から日が差すような瞬間のおかげで完走した。BUMPのギルドを思い出した。


リナサワヤマのライブに行った。サマソニよりもたくさんのレインボーフラッグがライトに照らされるたびに輝いていて、目頭が熱くなった。First Loveのカバーも聴けて、とても良いライブだった。


どこにもわたしはいないと思った。そう思うのは、自分で自分の息がしやすい場所を、無意識に探しているのかもしれない。どうすればわたしは呼吸が浅くならず、深く息が吸えるようになるのだろう。


それでも楽に息が吸えたと感じる瞬間はあった。NZでの日々のこと、大好きな音楽を全身で浴びる瞬間のこと、森や海を歩くこと。そういう瞬間や感情、記憶や匂いを思い出しながら、これからも積み重ねていくこと。


そうして積み重ねてきたものが、崩れてしまったらと想像してしまう。大切にしたいと思うものを、大切にする努力を放棄してどうするのか。どうにか奮い立たせて、また私は私と一緒に生きていくしかない。