2019/6/19 Auroraのなかでいきていく

f:id:Ikirkashinu:20221105152634j:image最近不思議な感覚に度々陥る。誰かがわたしの肩を地面に向けてずしっと押し込むような、体重がいくらか重くなり地面に吸い込まれそうな、重力がわたしのからだを一気に引っ張るような、そんな感覚だ。そしてその後すぐ体がふわっと浮くような感覚に移る。これらはほんの一瞬の出来事なので最初のうちはあまり気にならなかったけれど、何度も何度もふいにそんな感覚に出会うようになるとそのたび、頭の上に3つほどハテナマークが浮かびあがり、わたしの表情は少し曇(っている気がす)る。特に何事もなければいいな。


今まで全然そんなことなかったのに、BUMP OF CHICKEN「Aurora」を聴いて今日は泣いてしまった。
冒頭の一文「もうきっと多分大丈夫」、「もう」からそのひとが今まで歩んできた道程やそこで感じたであろう色々といった、それはそれはほんとうにとてつもなく膨大な量の情報がここまで届くこと、「きっと」は真っ直ぐ前を捉え離さないまなざしに力強くゆるぎない自信が感じられること、「多分」は笑って言ってるけれど不安で少し足元が震えて見えること。「もう」の次、相反するように見えるふたつのことばが並んだ後の「大丈夫」、ここでわたしの涙腺が一気に解放された。「もうきっと大丈夫」でも「もう多分大丈夫」でもない。「もう」もなくてはいけないことばだ。「もう多分きっと大丈夫」もちがう。「もうきっと多分大丈夫」、そう呟き俯いた顔を上げた瞬間、そこからこみあげる少しの恐怖と不安さえも味方にできたなら、一歩踏み出し歩き出せるような、そんな気がする。こんな風に自らを、決して背中を強く叩いてくれるとはいえないことばで、何度も何度も自らを鼓舞させて今までやってきたことを覚えている。軽く、ほんの少しだけの力でポンと背中を叩いてくれるほうが、わたしにとっては勇気付けられることがよくある。矛盾しているしていないといったような、正しいだとか間違いだとか、黒白明確に色んな場所で引かれている境界線が、彼らの音楽のなかでは存在していない。そこにあるのはいつだって、空を自由にたゆたうAuroraのようなグラデーションで、それにわたしはすくわれてきたのだ。


今年のツアーで2年ぶりにだいだいだいすきな彼らの音楽を全身で浴びることができる。もうめちゃくちゃに楽しみだ。その反面、ほんとうに無事何事もなくその日を迎えることができるのかどうか、めちゃくちゃに不安だ。彼らの身に、彼らを支える人たちの身に、何事も起きませんようにと何億回も祈る。仮にその日を迎えることができてもライブ直前になっても、何かしら良くないことがわたしの身に起こり、彼らに、彼らの音楽に会えなくなる事態になるのではないか、といつも思う。でも良くないことがわたしだけに起きたならいいか、と思うけれど、悲しくてたまらなくなるのでやっぱり嫌だ。そして無事開演したらせめて終わりまで、今感じている興奮と期待を抱いたまま、これから包まれる多幸感を奪われぬまま、終わりを思う切なさとさみしさをこころの底に敷いたまま、眩くいとおしい時間と空間を共につくりたい。この記憶をこれからのお守りにして、また会える日を夢見たい。


ほんとうだったら、常に不安で仕方がない。いつだって今日が、この瞬間が最後かもしれない意識が拭えない。拭う必要なんてないと思うからいいけれど。今日が最後かもしれない不安がある割にはダラダラ過ごしてしまいがちだけれど。もし仮に今日が最後だったとして、わたしはどう過ごすのだろう。わたしは、どう過ごしたいのだろう。よくある類の問いで、自分で自分に何度も問うたことがあるにもかかわらず、わたしはそれにすぐに答えられない。


ニュージーランドに行ってから、しにたいと思うことが格段に減った。歳を重ねることに対して楽しみを覚えるようになった。それでもふとした瞬間に、またしにたいということばの手前、しにたい気配、雰囲気みたいなものがわたしのなかで漂う。何度もそれを拭おうとしても、気配なので分散するだけでいなくならない。拭おうとするからダメなんだなと、最近ようやく気がついた。しにたいと思うことはダメなことなんだと、わたしはそう思い込んでいた。決してダメなことなんかじゃなかった。感じてはいけない感情は、なかったことにしていい感情は、ない。

 


今日が最後かもしれない不安と、しにたい気配。矛盾してみえるけれど、どっちもほんとうだ。そして、どっちも同じようにわたしの大切な感覚であり、いとおしい感情だ。そう思えるようになるまでに、随分と時間がかかってしまった。でも、決して無駄じゃなかった、と思う。思いたいだけかもしれない。大丈夫、大丈夫だ、無駄じゃない。むしろ無駄でもいいじゃないか。無駄でわるいことなんかあるか。今はそういうことでいい。

 


「大丈夫」ということばに意図せずかけられてしまう呪いについて最近考えている。というのは、わたしが「大丈夫」とこころから思って伝える前に、「大丈夫」と判断されがちであるからだ。「大丈夫」なように見せているわたしが悪いのだろうか...いやそういう風に見せているつもりはないと思うけどそんな風に映るのだろうか...いや不安な感じに映っているから励ますために「大丈夫」と伝えてくれたんだよなそうだよな...しかし「大丈夫」じゃないとき『大丈夫じゃないです!』って伝えづらいな...わたしが「大丈夫」と自信をもって言える状態ってどんな状態なんだろう...と延々と色々と悶々してしまうな。

 


わたしもAuroraそのものになって空を自由にたゆたいたくなるな。でもそうしたらあのうつくしいグラデーションをこの目に留めることができなくなるんだよな。もしかしたら気がつかないだけで、わたしたちもあのうつくしいグラデーションのなかで日々いきてるのかもしれないな。そうだといいのにな。そう胸を張って言える日が来るように、わたしができることをしていかなくちゃな。