2018/12/6 What's your name?

わたしの視界の端から端まで、いくつもの入道雲が天に向かって恐らく現在進行形で膨らんでいる。太陽は真上にあり、あまりにも鋭く容赦なく真っ直ぐに照らしてくるので、眩しくないように手を帽子のつばのようにし、顔に影をつくってあげる。絵を描くことが好きだから、入道雲を描くならば、どこからどれくらい光が差して、どんな風にどの方向に影を落とすのか、質感は何に似ているのか、そんなことを考えながら空を眺める癖がある。今はiPadで絵を描く練習をしているから、どんな種類のブラシを使って、どんな色をどれくらいの濃さで、どんな塗りかたで、というように考える癖もついてきた。今年も残りわずか、季節が巡りニュージーランドには、夏がやって来た。

普段わたしは怯えながら暮らしている。ということにうすうす気が付いてはいつつも、「いやそんなことねえし…チワワじゃあるまいし…」と頑なにみとめずプルプル震えているチワワに例えてるあたり意味がわからない。チワワってほんとうにプルプル震えるの?そう思っているのもしかしてBUMP OF CHICKENファンだけでは?いやBUMP OF CHICKENもか?そもそもわたしの怯える=震えるという方程式が成り立つ認識が間違ってるな。

「誰もわたしに気が付かないでくれ頼む~誰のじゃまもしたくない気に障りたくないイヤな気持ちにさせたくない~」と常日頃思っているので、普段フラット(シェアハウス)ではできるだけ物音をたてないよう抜き足差し足忍び足で生活しているし、思いがけず大きい音をたててしまったときは「ああすみません!わざとじゃないです!以後気を付けます!」とこころの中で全力スライディング土下座するし、仕事で名前を呼ばれると「え!わたし何かしましたかすみませんすみません以後気を付けますすみません」と瞬時に謝罪準備全力待機したりする。この間指示されたことをききとれず把握できずアワアワしてしまい、指示してくれた方の「もういい」という対応にわたしの鋼のハートに微かな傷がついて落ち込んだ。「こんな日もあるよお~元気だして!」とわたしの中のりゅうちぇるがあのスーパーハイパーキュートなスマイルで励ましてくれても、「ハイハイやっぱりお前は役立たずみんなの足を引っ張る給料泥棒~!!!!!!!!!!!」とわたしの中のわたしが手を大袈裟に叩き嘲笑いながらわたしをズブズブ死にたい沼に引きずり込む。せっかくりゅうちぇるが励ましてくれてるのになんでお前は~!なんでなの~!もしひとが自分のような立場だったら?給料泥棒とか思うのか?そんなひといるか?いても全人類の0.1%では?むしろ出会えたら幸運では?と考えることで自分をどうにかすくっている。しかし改めて文字にしてみると破壊力が案外凄まじくて更に落ち込む。わたしは落ち込むと、ドブ水の底にある泥の一万倍くらいネトネトした感情の膜に卵のようにすっぽり覆われる。文章にしていて少し泣きそうになる。両ひざを抱え背中を丸めそれこそ見た目も卵のようになり、カーテンを締め切った暗い部屋の隅に一週間留まりたくなる。実際そんな部屋で卵のような格好で一日中寝込むことが学生のときよくあったな~!理由は色々なんですけど…

名前を呼ばれる、呼んでくれるたび、ちょっとびっくりしてしまう。それが家族でも、友達でも、わたしのことを知っているひとでも、何だかいつも不思議な感覚をおぼえる。その感覚は多分驚きに近いものだから、びっくりする。名前を呼ばれると、「あ、わたしいたんだ~」あるいは「あ、わたしいるのか…」となる。「誰もわたしに気が付かないでくれ……わたしはこの世に存在していないんで…はい!これでわたしはいません~!あなたが見えているわたしはただの幻~!」と勝手に自分で自分の存在を無意識に消そうとしているというか消している、そして自分のことを幻化している。または空気を構成する酸素、二酸化炭素、窒素の何れかに必死に溶け込もうとしている。あるいは全部。

「あ、わたしがいること気が付かれてしまった~」とは一切ならない。何故なら、多分気が付かれたくないのと同時に気が付いてほしいのかもしれない。矛盾してるけど、矛盾するのが人間だと思うので…ほら…人間は素直じゃないので…一般化するのダメですね…わたしが素直じゃないだけ…何より普段は自分の存在をすっかり忘れているので…

あととても恥ずかしくなる。名前を呼ぶとき、意識はほとんどその名前を呼ぶ対象に向いてるとわたしは思うんですが、そう思うととんでもなく赤面しそうになる。実際にはそうならないけど。いちいちなっていたら身が持たない。かわりにわたしのこころが赤面している。名前を呼んでくれるひとの意識と時間とまなざしと感情、そのひとのあらゆるほとんどの持ちものがわたしに向いていると思うと、何だか申し訳ない気持ちとむず痒い気持ちとありがたい気持ちとありとあらゆる感情がせめぎあい、わたしの感情間でちょっとした内乱が勃発する。そのたびに内乱を止めようとするけど、その術が未だにわからないでいる。そもそも術なんてあるのかな。たとえあったとして、感情たちにその術は効かないだろうな。

わたしはというと、名前を呼ぶときいつも勇気がいる。いつも勇気を振り絞って呼んでいる。それに応えてくれるのか不安だから、どんな反応を示されるのかわからず怖いから、できれば不快な思いをしないでいてくれたらと願ってしまうから。いや、考えすぎだよ、わたしもそう思うよ、どう思われようがどう応えようがどんな反応を示そうがそのひとの自由でわたしはただ名前を呼ぶだけだよ、そもそも応えると反応を示すって同じじゃないか、「応える」は呼びかけに反応してくれるかどうかで、「反応を示す」はどんな反応をするのかという反応の種類のこと、という認識でわたしはしています、

 

なんてわたしは自己中心的なんだろう。自分のことしか考えていない。いいひとのつもりでいるのか自分。全くいいひとじゃねえよおまえ。相手のこと全く考えていないし自分が相手の立場だったらとか考える気ないのか。想像できないのか。ひとに、こころを一ミリも寄せていない。信頼していない。相変わらず自分が傷つくのがこわいだけだろ。ずっとそうやって、そうやっていつか来る終わりまで生きていけばいいよ。明後日終わっても、明日終わっても、たったいま終わっても構わないのなら。それでいいなら、そのままでいればいいよ。誰にも関係ない、迷惑だってかけない、たすけなんて来やしない。


わたしは嬉しい、わたしのことを呼んでくれて、たとえそれがただの用事を済ませるだけのことでも、何の意識も感情も意味も全部ないまま呼んだつもりでも、ありがとうと思います、たまに、思い出してみると、あっという間に目の前がぼんやり霞んでしまいます


わたしはこれからもきっと怯えながら暮らしていくんだろうと思う。それでいいと思っている。それがいい。そのかわり、勇気を味方にあなたに名前を尋ね、まぶたの裏にあなたの顔を焼き付け、脳裏には名前を刻み、こころにはあなたといた時間を刻もう。たとえその時間が一瞬でも、いつかお互いにお互いのことを忘れたとしても、あなたもわたしもその一瞬から続く道を、いつか来る終わりまで歩いていく。そうやって歩いた先で、命を燃やし尽くしてやろう。