2018/12/30 止まない雨 癒えない渇き

f:id:Ikirkashinu:20221105152433j:image太陽の光を遮る雲ひとつない空より、影が落ちない程度の明るい曇り空のほうが眩しく感じる。解像度がめちゃくちゃ低い白とびしたフィルムの写真のように、目の前がぼんやり白く霞んで見える。このまま自分も一緒に輪郭が曖昧になり、やがて溶けて蒸発し粉々になりそうな感覚に陥る。ほろ酔い気分に近いものを感じるけれど、それよりはもう少し意識がはっきりしている感覚。粉々になるということはクズになるということか。クズはクズでもなるんだったら星屑になりたいな。でもまずは星にならなきゃか。しんだら星になれるかな。でも星になるのは今じゃないな。もう少し先がいい。


ニュージーランドの夏は、生ぬるい空気が肌にしつこくまとわりついてくることなく、カラッとしていて過ごしやすい。湿度が低いとこんなにも快適なのかとびっくりする。こころとからだの自由度がすごい。今年もあとわずかだけど、年の瀬感がない。せわしくなく、いつも通りに淡々とのんびりとゆるやかに、日常を紡いでいく感じで年をまたぐのもいいな。今年は気が付いたら年をまたいでいた、という感じになるんだろうか。多分そのときにわかる。おそらくすぐ眠くなるからきっとカウントダウンの瞬間まで起きていられないな。それでもいいか。初日の出見たいな。晴れるといいな。


無音で過ごすことが多くなった。正確には24時間365日常に耳が鳴っているので完全な無音ではないけれど、補聴器の電源を切る、外す時間が増えた。それはありとあらゆる音にいちいち驚いたり気になったり反応したりしてしまって、それが重なれば重なるほど疲れていくから。でも完全にひとりの空間や時間はほとんどないから、もし話しかけられたときに気が付くことができず「無視された」と誤解を与えてしまうことは避けたい…ニュージーランドに来てから一度あったので…わたしのせいで生じる不必要な思いなどさせたくないし何ならわたしが「誤解させてしまうかも」という心配をいちいちしたくない。


宇多田ヒカルの「真夏の通り雨」がだいすきで最近よく聴いている。乾燥して潤いが圧倒的に不足し砂漠化したこころに恵まれる水のような、背中に巨大な鉛をぐるぐるに巻き付けられ底のない海に放り投げられたときに力強くわたしの手を掴んで引っ張りだしてくれる手のような、カーテンを閉めきった部屋のベッドで布団を頭まで被り枕を濡らしていると上から抱き締めてくれる温もりのような、ある日の冬の曇天の朝、少し荒れた海と雪化粧した砂浜、波の音と肌に突き刺す痛いくらいの寒さの中、そこにひとりで立っている透き通ったさみしさのような、わたしにとってそんな曲だ。ライブ行きたかったな。いつか行けるかな。行けるといいな。


自分をいちばん傷つけ、苦しめ、悲しませるのは、自分だ。そして自分のことをいちばんわかってあげられるのも、味方でいられるのも、愛せるのも、自分だ。嬉しい悲しい楽しい苦しい愛しい寂しいすべての感情をころせるのも、自分だ。そこからすくいだせるのも、自分だ。わたしはわたしとしぬまでいきる。このからだとこころは、決して空っぽなんかじゃない。かといって満たされてるわけでもないけど。


少し息がしやすくなった気がするな。からだの中にある、閉めきったまま錆びて開かなくなったいくつかの窓の隅っこのガラスが割れ、風通しがよくなったみたいだ。凪いだ海のように穏やかに、一回でも多く笑えるように健やかに、葦のようにしなやかに、いきられたらいいな。いきろ。