2.019/10/19 煙を吐きつつ共にいきる

f:id:Ikirkashinu:20221105152819j:image自分の中を渦巻くドス黒い煙に、時折自分ごとのみ込まれそうになる。何度掻き消そうと試みても暖簾に腕押しで、煙はわたしの中から立ち去っていってはくれない。でも、立ち去っていってはくれないその理由を、わたしはちゃんとわかっている。煙の存在を、わたしは認めようとせず、いないこと、そして見なかったことにしようとしているからだ。

煙の正体は、わたしの本心だ。もっと言えば、本心がことばに直されてわたしの口から、あるいは手話として指から解き放たれ、ひとに伝わる機会に相見えることは、わたしがいきている間はないと思われるような、わたしにとって憎き醜い本心たちだ。

煙を掻き消したいなら、何が煙を発生させているのか、発生源を突き止めなければいけない。それこそが煙の正体であり、わたしの本心だ。それでも突き止めることに迷いが生じてしまうのは、煙の存在を完全に消し去りたい、とつよく願っていないからだろう。だから煙がどこから、何から発生しているかなど、微塵も興味が湧かないのだろう。

いや、興味はある。それもかなりつよく。ただ、直視する勇気がわたしにないだけだ。相変わらずわたしは、自分が弱いことを認めたくないみたいだ。煙の正体を知ることは、自分の弱さを知り、それを認めることになる。それに何か不都合なことがあろうか、さっさと認めてしまえばいいのに。こんなに自分で自分の首を絞めることもなかったろうに。

ずっと、燃えている。静かに、時に激しく、時に絶え絶えになりながら、わたしの中で何年も燃え続けている。煙の発生源であるこの火は、わたしの負の感情をエネルギーにして今日まで燃え続けてきた。しにたい、消えたい、ころしたい、しね、しね、ころす、しにたい、わたしがここにいる必然性がわからない、ひとりの人間がいるべきはずだった場所をわたしが奪った、わたしの発言や行動のひとつひとつがひとを傷つけている、嫌な気持ちにさせている、不快で居心地のわるい思いを抱かせている、あなたの目の前にいるのがわたしでごめんなさい、ごめん、ごめんね、いくら謝ってもゆるしを請うても、きっと届かないしゆるされない。

ずっと、ゆるされたいと願っている。祈っている。でも、誰から?何から?わたしは、犯した罪を持っているの?それならどんな罪を犯したの?何もわからなくなる。もう少しいきていたいと願うようになってきても、やはり煙がわたしの中で充満し続ける限り、しにたい気配は消えない。何が水となり、火が消えるのだろう。わたしは、この火が消えることをつよく望んでいるのだろうか。

わたし自身がつよく望んでいなくても、この火は消えた方がいい。この火が、この煙が、何か良い作用をわたしにもたらしてくれたか?自分で自分を、ずっと苦しめてきただけではないか?見ないフリを続け、存在を認めないまま生きてきたツケが、今のわたしだ。たすけを請うことも弱さを認めることもできないままいきてきた、今日のわたしだ。

煙が充満すればするほど、呼吸ができなくなる。苦しくつらく、いっそのことなら、としにたくなってしまう。だから火は、消えた方がいい。でも、燃え続ける火の存在を認めることができないまま、火を消す術すら知らないまま、今日までいきてきてしまった。火の在り処も消し方もわからず火の存在を認めることが難しいのなら、まずは煙を自分の中に閉じ込めず、少しずつで構わないから外に出そう。そうするだけで、随分と呼吸がしやすくなるはずだ。そして燃え続ける火は、わたしの負の感情を燃料にして燃えるのなら、消す必要もないのかもしれない。しばらくは共にいきていけるはずだ。

少しずつでいい、今日から始めよう。わたしは自分の弱さと向き合い、憎き醜い本心を抱きしめ、見ないフリをやめる。それはつらく長い道のりだけれど、きっといきていける、気がしている。そう言える根拠がどこにあるのかわからない。けれど、音楽を聴いたり文章に触れたり映画に飛び込んだり、森の中を歩いたり海の光を浴びたり木漏れ日にあたったりすることに、この上ないしあわせと底知れぬよろこびを感じられるのなら、今はそれでいいよな。