2019/11/19 一瞬の温もりに一生すくわれながら生きる

マントを身につけるようにして布団の中に潜り込む。そうすると次第に、自分の体温でじわじわと温かくなってくるのがよくわかる。自分の意志とは全くの無関係なところで、わたしの心臓が休まず動き続けることによって、血液が体中を巡り続けることによって、わたしの体温が布団に伝わり、布団という媒体を介して自分の体が温められている。自分の体温は温かいんだ、と、いや温かくない体温なんてないでしょう、だって「体温」だし、と、これは果たして「温められている」と言っていいのか、体温に意志など存在せず、わたしが「温められている」と思いたいだけなのではないか、と、そんなことをぐるぐる駆け巡り続けるわたしの頭の中は、相も変わらず忙しい。それでも何だか不思議な心地がする。わたしもちゃんとした生命体なんだなと微睡ながら他人事のように思うと同時に、皮肉なものだとも思う。わたし自身はとても冷酷で非情で、温かみなどほんの1ミリも持ち合わせていない人間なのに。


自分で書いた文章を後で改めて読み返してみたとき、「これはわたしが書いたものではない」と眉間にしわを寄せ、嫌悪する自分がいる。文章が紙媒体であれば、それを黒のマッキーで塗りつぶしたり、ライターやマッチで燃やしたりしたくなる衝動に駆られる。デジタルではそれができない。スマホのメモ帳であれば、ゴミ箱のアイコンを押すのみ、クリックたったひとつで消去できる。あまりにも呆気なく、そしてどこか消化不良になる。


自分をさも無害でやさしい人間かのように見せかけようとする自分に気がつくたびに反吐が出て仕方がない。わたしが書く文章だってそうだ。わたしは、やさしい人間なんかじゃない。自分が傷ついた回数よりも、ひとを傷つけてきた回数の方が圧倒的に多い。きっとそうだ。そう思わないと、やっていけない。わたしは生きていけない。ひとを傷つけたのならわたしはしんでしまえばいいと思ってしまうけれど、そうはいかない。生きつづけることが、わたしにとっての地獄であり、罪滅ぼしだ。


たまたまわたしは、今日までひとを殺さなかっただけだ。たまたまわたしは、今日までひとに殺されなかっただけだ。たまたまわたしは、屋根のある家に住み、働く場所があり生活することができているだけだ。たまたまこの時代にこの国にわたしとして生まれ、今日まで生きてきてしまっただけだ。たまたまの繰り返しで、その積み重ねで、ただそれだけのことだ。ただそれだけのことなのに、なぜ毎日こんなにもかなしくてくるしくてむなしくて、どうしようもない空虚感と罪悪感に苛まれるのか。


お腹が鳴る。何か食べたいなと一瞬思いつつ、ふと我に帰るかのように何か食べようと思えなくなる。少し食べないくらいでひとはしなないし、わたしが食べることで、呼吸し続けることで奪われたいのちがあり環境負荷になるゴミが出る。ゴミが出るような食べ方をしなければいいだけだろ。しんだほうが地球のためだよなといつも思ってしまう。でもわたしひとりしんだくらいじゃ全く地球のためにほんの1ミリもならないんだよな。じゃあわたしがいきていたほうができることってあるんじゃない?あるでしょう。そうでしょうよ。


そんな風に思いながら、結局ご飯を食べ、排便し、ゴミを出し、また明日からズルズル生きていくんだろう。非常時以外はペットボトル飲料を買うことをやめてマイボトルを持ち、どんな店でもレジ袋は貰わなくて済むようマイバッグを常に持ち歩き、肉や乳製品を口にする機会を減らす。生きていたくないと思いつつ、わたしはそんなことをする。生きていたくないからこそ、生きていたくないなりにこれからを生きるひとたちのためにできることをしたいといつも考える。矛盾した人間だとつくづく思う。素直じゃないな。これでも希望は持ち続けているし、理想だってある。それがなければ、生きつづけることが地獄であり罪滅ぼしであるわたしは耐えられず、途中で生きるのをやめるだろう。


顔も名前も知らない見ず知らずのひとが、わたしの文章を読みことばを残してくれる。そのことばを何度も何度も読み返し、そのたびに涙が頬を伝い流れる。こんなうつくしいことばを、こんなやさしくあたたかいことばを、こんな冷酷で非情な人間が受け取っていいものなのか、ほんとうにわたしの文章に向けて残してくれたことばなのか、わたし自身ではなくわたしが書いた文章に対してだからわたし自身にむけたことばではない、でも、この文章は、わたしじゃないと書けなかったものだ。わたしが拒否してしまったら、残されたことばに行き場はあるだろうか。冷え切って枯れて、しんでしまうのではないだろうか。わたしは罪のない無垢なことばを、平気で殺せるのか。ことばを残してくれたひとのこころを、殺しているともいえるのではないか。


うつくしいことばに、やさしくあたたかいことばに、涙が流れるのなら、わたしは自分が思うよりそこまで冷酷で非情ではないのかもしれない。少なくともわたしには、うつくしいと思えるこころがあること、やさしさとあたたかさを感じられる感覚があること、こころが大きく揺れたとき、胸があつくなり感情と思いで満たされていっぱいになり、涙となって流れること。そうではないひとが非情で冷酷であるわけではもちろんない。ひとは、もしかしたら非情で冷酷であることが前提なのではないかとも思う。そもそも非情で冷酷であることの何がいけないのだろう。非情で冷酷なひとだけが必ずしも、ひとを傷つけるわけではない。そして、自分自身が全く傷つかないわけでもない。


わたしが今日まで生きてこられたのは、うつくしくてやさしくてあたたかいと思えるものがあることを知ったからだ。それに出会い、触れることにより、喜びを見出すようになったからだ。それらは、わたしにはないものだったからだ。憧れの眼差しのまま、手に入れたくて触れたくて、喜びを見出したくて、渇望するようになったからだ。わたしは、醜き欲深い人間だ。


わたしがそれらに触れたら、一瞬で壊れてしまう。それらに対して愛おしさを感じてしまったら、離せなくなってしまう。そう知ってはいても、抱きしめたくなる。とても繊細で、簡単ではないけれど難しくもなくて、複雑ともいえるし単純ともいえる。やさしさあたたかさうつくしさは、冷酷さや非情さと遠くかけ離れている、わけでもない。


きっと、隣り合わせだ。あたたかさを知っているのは、その逆のつめたさを知っているから。あたたかさに傷つくこともあれば、つめたさにすくわれることもある。うつくしさは時に暴力になり得るし、汚なさにそっと抱きしめられることもある。何にうつくしさを感じ、何に汚れを感じるのか、どんなことにあたたかみを見出し、どんなことにつめたさを知るのか。何がよくて何が悪いかなんて、何が正しくて正しくないかかなんて、まるっきり興味がない。いや少しは興味があるかもしれない。完全無視はできない。それでも、わたしが感じるままが正解だ。あなただってそうだ。それを、決して無視せずになかったことにせずに、自分だけが大切にすればいい。大切にしてほしい。あなたが大切にしたいという思いを、わたしは大切にしたい。大切にしたくないというのなら、それでもいい。わたしがかわりに大切にする。おせっかいだろうけど。