20201.1~7(目標、初詣、叫び、運動、ひとり、本、図書館)

新年の目標をたてた。いくつかあり、その中で大きな目標としては英語、韓国語の勉強を続けること。アラビア語もやりたいけれど、文字を読めるようになること、自分の名前と挨拶を覚えるまでにして来年以降から本格的にやっていけたらいいな。そのためにまず英語と韓国語を頑張りたい。何かを継続して頑張りたいことがあると、必然的に生きるを続けることになるのでまだ死ねない。今年もなんだかんだで死にたくなりながらも結局なるだけで、意識せずとも必然的に、生きることを選び続ける年になるのだろう。

2020.1.2
今日は前日と比較して天気が良かったので、初詣に行った。2年ぶりの日本での年越しだったから、久しぶりな感覚が少しでも味わえるのかと思っていたら、全くそうじゃなかった。ニュージーランドでの年越しは、カウントダウンのイベントにも参加せずひとりで静かに過ごしたので、これまでの年越しと全く違っていたためか、年を越した実感がほとんどなかった。それゆえに「年を越す」という区切りを経ないままにこの2年を過ごし、わたし史上初めて2年ぶりに「年を越した」と言えるのかもしれない。年が変わるだけで地続きの日常を生きている事実はそのままで何も変わらないはずなのに、それでもこの区切りは新たな1年を生き抜くための、しなやかさと瑞々しさをいつもわたしに与えてくれる。

2020.1.3
時折訪れる叫び出したくなる衝動と動かずにはいられないもどかしさ、家だと存分に衝動のままに叫び、もどかしくなる前に体を思いのままに動かす。それができる環境がわたしにあるとてつもない幸福、それがわたしだと受け止めてくれるひとたち。わたしがわたしとして死ぬまで生きていくしかない事実に絶望する瞬間よりも、わたしがわたしとして生きていける面白さに目覚め始めた波の方が、今はとても大きくつよい。その波にうまく乗っていけたらいいな。そこから落ちて飲み込まれて溺れる未来に今から怯えてしまうけれど、そのときはそのときだ。未だ見ぬ未来に対して怯えることに、わたしの命を使いたくはない。

2020.1.4
朝から運動した。といってもNHKで放送されていた筋肉体操のサーキット、5分のみだけれど。それでも体を動かすことはやはり気持ちが良くて、凝り固まっていたのは体だけじゃないことを、筋トレにより解されたわたしの体が教えてくれる。もっと具体的に言えば、緩やかに流れていた体中の血液が全身を素早く駆け巡り、酸素をもっと取り入れようと心臓が素早くなり、冷え切っていた体温が内側から熱を帯びたかのように上昇する。そんな体と比例するかのようにして、こころも内側から緩やかに、わたしの体に身を委ねるようにして解されたような気がした。生きるなら、軽やかに生きたいよね。からだもこころも。

2020.1.5
家の中にいてもひとりになりたい。やはりすぐにでも一人暮らしをまた始めたい。家族の存在はわたしにとって大きなものであることは変わりはないし、わたしがいていいとこころから安心して思えるのも家族がいる場所だけだ。ひとつでもそういう場所があると胸を張って言えるだけで、わたしは十二分に恵まれているのだろう。それでもひとりでいる時間はわたしにとって、わたしがわたしとして生きていくためになくてはならない。自らの輪郭を撫で、ひとと自分との境界線を確かめる。自分が自分であるということがいちばんわかるのは、他人の存在があるときだということを、ひとりになり再認識する。

2020.1.6
久しぶりに外に出た。わたしの年齢であればほとんどのひとは、今日から仕事始めだろう。(正月休みがないひと、短いひともたくさんですよね..ご安全に)わたしはわたしでこれから頑張っていくしかない。ひとに合わせたらわたしはすぐに潰れてしまうことはちゃんとわかっているつもりでも、それでも憧れずにいられない。そう、外に出たのは本を買うためだ。あまり家に本を貯めておくこともできないから、ちゃんと吟味して買わねばならない。電子書籍があればそっちを買ったり、図書館で読むことが出来るならそっちで読んだりする。それでもやはり、自分の足で本屋に出向き、棚に目当ての本を見つけてそれを手に取り、レジで精算してもらい自分のお金で本を手に入れるまでの幸福は、何度味わってもたまらずいいもので、わたしはこの幸福を何度も欲してしまう。

2020.1.7
今年初めて、そして何年ぶりかに地元の図書館に行った。ニュージーランドでは友人に呆れて笑われるほどに町の図書館を廻って勉強していたし、本も大好きで読むけれど、何故だか全く足を運ばなかった。昔訪れたままの姿で、懐かしさを感じつつも思っていたよりずっと小さくて驚いてしまったけれど、単にわたしが大きくなったからだとすぐに理解した。それに気がつくことができる場所があることに、何故だかこそばゆい気持ちになってしまって、些細な幸福を感じるよりも先にひんやりとした切なさを感じる。図書館は建物が二つあり、短い渡り廊下を経て倉庫棟と呼ばれるそこに足を踏み入れたとき、埃っぽさが混じった紙の匂いで満たされていた。それはわたしにとって、幸福の類の匂いだった。