2020.1.8~14(韓国語、椿の花咲く頃、耳鼻科、見るということ、ことば、中途半端、片思い)

2020.1.8
ゆっくりでも、確実にわたしの身についている。韓国語を学び始めてから4ヶ月ほど経ち、少し自分を疑い始めていた。完全に独学なため果たしてこのやり方で韓国語を身につけられるのか、今の英語のレベルまで持ってこれるのかと不安だったけれど、Twitterに時々流れてくる韓国語のツイートを読んでみると、明らかに以前より読めるようになっている。読み方だけでなく、意味も併せて理解できる。ただの記号としてしか捉えることのできなかった文字が、ちゃんと意味を纏ってそこに存在していること、その意味を掴むことができること。この瞬間がわたしにとっては形容し難いほどに喜びに満ちていて、たのしいーーーーわーわーーーと叫び出したくなる。ここからまた、続けていく。

2020.1.9
Netflixで「椿の花咲く頃」をようやく観終えた。終わりに向かっていくほどに凄まじく惹き込まれてしまって、食い入るようにして画面を観ていたから、それに気がつくたびに画面から離れて観る、でも段々とまた顔と画面の距離が近くなる、を繰り返していた。最初の頃は苦手でたまらなかった登場人物たちが、終わる頃には全員とんでもなく愛おしいひとたちになっていた。どうかみんな花道だけを歩いてほしいし、もし花道じゃなくて茨の道だとしても、あなたの心に咲き誇る花畑が、たった一輪の花が、あなたを守ってほしい。最終回、奇跡は起こるものでなく起こすものであること、常套句のようにきくこのことばも、本当にそうなんだろうと思えてしまうくらいに説得力があって、わたしもオンサンの住人のひとりになってこの奇跡の一欠片になりたかった。わたしたちみんな、花道だけを歩いていこう。

2020.1.10
今年耳鼻科初めだった。と言うのも通院しているわけではなく、昨年末に姉の診察ついでにわたしも気になる症状があったためについていった結果、甲状腺が大分腫れておりホルモンの値を調べるため血液を採取してもらった。その診断結果を受け取るためだ。結果は正常だったので一安心だったが、見た目でわかるくらいに腫れているため定期的に検査が必要らしい。健康にいきることの難しさを再認識。健やかに穏やかに過ごせますように。

2020.1.11
「目の見えない人は世界をどう見ているのか」読了。読んで良かったし、ひとに勧めたいと思う本だ。わたしは展覧会や美術館に行くことが大好きだけれどひとりで行くのがいちばん楽しいしそれがベストだとずっと信じて疑わなかった。でも目の見えないひとの美術鑑賞についての部分は自分の盲目さを真っ直ぐに突きつけられ、こころが痛かった。そしてはじめてひとと一緒に美術館に行ってみたいとつよく思った。こうしてわたしの中で信じて疑わなかった価値観があっさりとひっくり返されてしまうのは、とても清々しく気持ちがいい。異なることは面白く、さっきまで見えていた世界に新たな色彩が浮かび上がり、わたしの世界が一層鮮やかになる。その色彩は触れてみると経験したことのない手触りを持ち、時々触れてみたくなる好奇心をわたしに与えてくれる。

2020.1.12
英語と韓国語、ふたつを同時進行でやっているから、どうしても中途半端にならざるを得ない。でも、完璧を追い求めてしまったら、きっと自信をなくして挫けてしまう。中途半端とどうしてそう思ってしまうのだろう。わたし自身の日本語も手話も、中途半端じゃないなんて言えるのだろうか。何をもって中途半端とわたしは判断するのだろうか。中途半端ではいけないのだろうか。いけないならどんな風にいけないのだろうか。一度考えはじめてしまったら、終わりのない螺旋階段をひたすらに登り続けるようになる。わたしはただ、知りたい、学びたい。その一心で今日まで生きてきている。その気持ちがわたしを生かしている。その根は日毎にどんどん太く、強く、深くわたしの中を血液のように張り巡らせ、抜ける日が来ることはない。

2020.1.13
今年初めてひとと出かけた。そして、初めての出会いがあった。初めてはいつもどんなときも怖い。特に、ひととの出会い。わたしは雑談というものが心底苦手で下手くそだと思っている。いつも常日頃、わたしが放つことばがどうか、ひとを優しく包むものであるよう、おかしさで笑ってしまうものであるよう、絹のように滑らかで聞き心地のいいものであるよう、とにかく刃になり変わらぬよう、願って話している。でも、それは所詮独りよがりな考え方でしかない。わたしのことばが放たれ、それを受け取ったひとがいたなら、そのことばはもうわたしのものではなく、受け取ったひとのものだ。そのことばにわたしのどんな願いが込められようと、受け取ったひとがそこから感じ取ったものが、正解だ。それを忘れない。ことばが放たれない時間をも、膨大なことばが常に放たれている。むしろことばが放たれないということがことばになっている。ことばを放さないという選択をしているとも言える。兎にも角にも、しぬまで想像することを怠らない。

2020.1.14
たまにテレビからきこえてくる日本語が韓国語にきこえる。少しずつわたしの中に新しい言語が浸透してきている心地が感じられて、とてつもなく嬉しい。30歳になるまでには、韓国語も英語もわたしの日常に馴染みのあるものになっていたらいいな。英語は比較的馴染んでいる気でいるけれど、まだわたしの片思いな気がしている。日本語とは両思いなのかと言われたらまあ、確かに首を傾げてしまうけれど、少しはわたしのことを見てくれているんじゃないかな...と期待してしまう。そんな風に考えるから、わたしの未来を想像するのが最近とても楽しくなってきている。歳を重ねることがこんなにもときめきを覚えるものだなんて、夢にも思わなかった。