2020.1.22~28(バガボンド、散髪、ユニークライフ、自意識過剰、老人ホーム、面談、しいたけ占い)

2020.1.22
バガボンド」シーズン1観終わりました。ただただ凄かった...どんどん伏線が回収されていくにつれて、自分の記憶力のなさと推察力のなさが露呈されるのでやめてほしい。やっぱりやめないでほしい。「ん?あーーーー!あれ!気になってたけどすっかり忘れてた!!!!、!!!、!!」となる率の高さ。長いけど飽きさせないストーリーの丁寧さと臨場感凄まじいカメラワーク、登場人物全員サランヘ......ってなってしまう演技力とひとりひとり異なりかつ際立つ魅力よ........シーズン2あるんだよね????????待ってます.......あー面白かった。

2020.1.23
今年初、髪を切った。それなりに髪が伸びたと言えどショートのままのはずなのに、切った髪の量の多さに毎回驚く。すっきりした。もっさりしていたこころも一緒にすっきりした心地だ。心がもっさりするとは。そして久しぶりにマックを食べた。体に悪くてカロリーの高いものはやはり美味しいな〜たまに食べたくなっちゃう。相変わらずテレビは観ていて気持ちが良くないな。Netflixしか観たくない。バナナフィッシュを観てるのですがつらすぎて無理になる

2020.1.24
「ユニークライフ」シーズン2まで観終わった。最後の卒業式のシーンとても良い....大人になるということは捻くれることでもあると思うしそうであっても捻くれないまま大人になることってそんなに難しいことなのだろうか...と時折思ってしまうな。サムの存在がどれだけのひとの救いになるのか計り知れないな。シーズン3も早く観ちゃおう。その前に履歴書書かなくてはいけないし証明写真も撮らなくてはいけない。頑張れわたし。

2020.1.25
履歴書を書いた。ただし手書きではなくパソコンで。手で書かなくて済む方法があるならそっちを選びたい。下書きをしてもいつも間違えてしまう、そして間違えてはいけないというあのストレスを味わいたくない。証明写真も撮らなくてはいけないのだが、本当は撮りたくない。自分の真正面の顔なんて自分でも見たくもない。直接会うときでいいじゃないか。必要性がわからない。証明写真を撮るときに払うお金が自分の価値のような気がしてならない。考えすぎだ。わかっている。自意識過剰だ。いつもそうだ。嫌々言いすぎだ。だって嫌なんだ。背丈が大きくなっても、あのときのわがままな小さい人間のままだ。

2020.1.26
老人ホームに見学に行った。わたしが住みたいな。ひとにおばあちゃんと呼ばれるような年になれたらそのときは推しを見てワイワイしたいな。BUMPさんがいない世界を生きているのかもしれないと思った途端つらくなってしまうな。あのひとたちがいない世界を生きていけるんだろうか。そんなこと言いつつ生きていくんだろうな。いろんなことが難しくて、それでも生きていかなくてはいけなくて、今は生きていきたいと思っているからいいけれど、また無理になってしまったときもう這い上がれないような気がしてしまってどうしようもない。

2020.1.27
就職に向けて面談した。とても穏やかな人で安心した。履歴書はパソコンで書けるし証明写真も携帯で撮っていい。時代が少しずつ変わっていっているのを肌で感じる。今のこどもたちが大人になる頃に、わたしたちが経験したことについて「ありえない」と言って欲しい。そのために良い未来をつくっていきたいね。

2020.1.28
なんか今週は少し調子が良くない気がする。そういえば今週のしいたけ占いまだ見てないと思い見たら、ちょっと泣いちゃいそうになったのはただの生理前かな。最近ずっと予定通りだったのに今月はまだなんだよな。今月飲み始めた薬の関係もありそう。

2020.1.15~21(面接恐怖症、春が来る、諦めない、ライブ、薬すご、履歴書嫌々症、「らしさ」から解放される)

2020.1.15
早くも新年ひとつきめの半分が過ぎようとしている。タイムイズゴーンソーファスト。そろそろ就活しなきゃいけない。面接がこわい。なぜこわいのか。わたしを見る目がこわい。なぜそう思うのか。何だかバカにされそうな気がしてならないから。バカにされそうなことをわたしはしてきたのか。バカにされたところでわたしの価値は減らない。ひとをバカにするようなひとがいるところで働かない方がいい。そう思わないとやっていけない。バカバカバカうるさい。

 

2020.1.16
焦りが出てくる。春が来る。後回しにすればするほどやらなければならないことはやるまでわたしの頭の中を縦横無尽に駆け回るので、ストレスが次第に溜まってくる。春が来る。頑張らなければいけない。頑張りたい。これは義務じゃない。わたしがこころから望んでいることだ。動かなきゃ、踏み出さなきゃ、遠くに行くことはできない。それどころか100メートル先ですら行けない。当たり前だ、まだ一歩も踏み出していない。やっとスタート地点に立ったんじゃないか。崖から落ちてしにそうになっているところを、どうにかもがいて耐えて踏ん張って、自らの体で這い上がって今日まで生きてきたんじゃないか。何も怖くない。わたしは大丈夫。大丈夫だよ。春が来る。

 

2020.1.17
やるだけやってみよう。妥協はしない。今が頑張るときだ、そのための3年間だったんじゃないか。学びたい、知りたい、みんなでしあわせに生きたい。しぬこと消えることが脳裏を過ぎる瞬間がひとつでもなくなってほしい。傲慢だしそれがあるから生きられることもよくわかる。それでも、わたしは希望を捨てない。諦めない。わたしにとって働くことは、緩やかに穏やかに健やかにしなやかに、生きていくための手段だ。それを忘れない。

 

2020.1.18
米津さんのライブ当たりませんでした.....いつか行きたいな。ママムーのライブ楽しみだな。泣いちゃいそうだな。生きていけるな。生かされてるな。生きていたいな。

 

2020.1.19
ホルモン剤を服用してから心なしか眠くなくなった。そして体も軽くなり、疲れにくくなった気がする。わたしは勝手にホルモンによって自分の心身が何らかの影響を受けることはほとんどないと思っていた。実際そういう実感がなく、単にわたしが鈍かっただけらしい。これまで突然泣き出してしまったり全て悪い方向にしか考えられなくなったりするような精神的なものも中には、自分でコントロールするのは難しいものも含まれていたのかもしれない。自分の体を守ることができるのは自分だけだ。勉強しなきゃな。

 

2020.1.20
考えるより行動せよ、と言いつつも考えなさすぎるのは如何なものか。わたしの場合考えすぎる、考えなさすぎなまま行動する、という両極端な気がしている。気がしているだけなので実際は程よい状態かもしれない。就活するにあたり、履歴書を書きたくない気持ちが強すぎる。証明写真を撮らなくていい、生年月日と性別を書かなくていい、パソコンで作成する。それだけでどれだけのひとが救われるのだろう。選択肢を増やしていきたい。

 

2020.1.21
「ボーイズ-男の子はなぜ「男らしく」育つのか」読了。女らしさを強要されることが嫌いだったくせに、男らしさを強要していた過去の自分を思い出して死にたくなる。改めて自分を含め誰もが被害者であると同時に、加害者でもある。自らの加害性に向き合い、認めることは辛く苦しい。でもそれ以上に自分の行いのせいで辛く苦しい思いをさせたかもしれないひとがいるのは、紛れもない事実だ。だからこそ、壊さないといけない。自由でいられるはずのこころさえも縛ってしまう、ありとあらゆる枠を。ひとりひとりが望むままの姿で、自由なこころで、みんなでしあわせに生きていきたい。

2020.1.8~14(韓国語、椿の花咲く頃、耳鼻科、見るということ、ことば、中途半端、片思い)

2020.1.8
ゆっくりでも、確実にわたしの身についている。韓国語を学び始めてから4ヶ月ほど経ち、少し自分を疑い始めていた。完全に独学なため果たしてこのやり方で韓国語を身につけられるのか、今の英語のレベルまで持ってこれるのかと不安だったけれど、Twitterに時々流れてくる韓国語のツイートを読んでみると、明らかに以前より読めるようになっている。読み方だけでなく、意味も併せて理解できる。ただの記号としてしか捉えることのできなかった文字が、ちゃんと意味を纏ってそこに存在していること、その意味を掴むことができること。この瞬間がわたしにとっては形容し難いほどに喜びに満ちていて、たのしいーーーーわーわーーーと叫び出したくなる。ここからまた、続けていく。

2020.1.9
Netflixで「椿の花咲く頃」をようやく観終えた。終わりに向かっていくほどに凄まじく惹き込まれてしまって、食い入るようにして画面を観ていたから、それに気がつくたびに画面から離れて観る、でも段々とまた顔と画面の距離が近くなる、を繰り返していた。最初の頃は苦手でたまらなかった登場人物たちが、終わる頃には全員とんでもなく愛おしいひとたちになっていた。どうかみんな花道だけを歩いてほしいし、もし花道じゃなくて茨の道だとしても、あなたの心に咲き誇る花畑が、たった一輪の花が、あなたを守ってほしい。最終回、奇跡は起こるものでなく起こすものであること、常套句のようにきくこのことばも、本当にそうなんだろうと思えてしまうくらいに説得力があって、わたしもオンサンの住人のひとりになってこの奇跡の一欠片になりたかった。わたしたちみんな、花道だけを歩いていこう。

2020.1.10
今年耳鼻科初めだった。と言うのも通院しているわけではなく、昨年末に姉の診察ついでにわたしも気になる症状があったためについていった結果、甲状腺が大分腫れておりホルモンの値を調べるため血液を採取してもらった。その診断結果を受け取るためだ。結果は正常だったので一安心だったが、見た目でわかるくらいに腫れているため定期的に検査が必要らしい。健康にいきることの難しさを再認識。健やかに穏やかに過ごせますように。

2020.1.11
「目の見えない人は世界をどう見ているのか」読了。読んで良かったし、ひとに勧めたいと思う本だ。わたしは展覧会や美術館に行くことが大好きだけれどひとりで行くのがいちばん楽しいしそれがベストだとずっと信じて疑わなかった。でも目の見えないひとの美術鑑賞についての部分は自分の盲目さを真っ直ぐに突きつけられ、こころが痛かった。そしてはじめてひとと一緒に美術館に行ってみたいとつよく思った。こうしてわたしの中で信じて疑わなかった価値観があっさりとひっくり返されてしまうのは、とても清々しく気持ちがいい。異なることは面白く、さっきまで見えていた世界に新たな色彩が浮かび上がり、わたしの世界が一層鮮やかになる。その色彩は触れてみると経験したことのない手触りを持ち、時々触れてみたくなる好奇心をわたしに与えてくれる。

2020.1.12
英語と韓国語、ふたつを同時進行でやっているから、どうしても中途半端にならざるを得ない。でも、完璧を追い求めてしまったら、きっと自信をなくして挫けてしまう。中途半端とどうしてそう思ってしまうのだろう。わたし自身の日本語も手話も、中途半端じゃないなんて言えるのだろうか。何をもって中途半端とわたしは判断するのだろうか。中途半端ではいけないのだろうか。いけないならどんな風にいけないのだろうか。一度考えはじめてしまったら、終わりのない螺旋階段をひたすらに登り続けるようになる。わたしはただ、知りたい、学びたい。その一心で今日まで生きてきている。その気持ちがわたしを生かしている。その根は日毎にどんどん太く、強く、深くわたしの中を血液のように張り巡らせ、抜ける日が来ることはない。

2020.1.13
今年初めてひとと出かけた。そして、初めての出会いがあった。初めてはいつもどんなときも怖い。特に、ひととの出会い。わたしは雑談というものが心底苦手で下手くそだと思っている。いつも常日頃、わたしが放つことばがどうか、ひとを優しく包むものであるよう、おかしさで笑ってしまうものであるよう、絹のように滑らかで聞き心地のいいものであるよう、とにかく刃になり変わらぬよう、願って話している。でも、それは所詮独りよがりな考え方でしかない。わたしのことばが放たれ、それを受け取ったひとがいたなら、そのことばはもうわたしのものではなく、受け取ったひとのものだ。そのことばにわたしのどんな願いが込められようと、受け取ったひとがそこから感じ取ったものが、正解だ。それを忘れない。ことばが放たれない時間をも、膨大なことばが常に放たれている。むしろことばが放たれないということがことばになっている。ことばを放さないという選択をしているとも言える。兎にも角にも、しぬまで想像することを怠らない。

2020.1.14
たまにテレビからきこえてくる日本語が韓国語にきこえる。少しずつわたしの中に新しい言語が浸透してきている心地が感じられて、とてつもなく嬉しい。30歳になるまでには、韓国語も英語もわたしの日常に馴染みのあるものになっていたらいいな。英語は比較的馴染んでいる気でいるけれど、まだわたしの片思いな気がしている。日本語とは両思いなのかと言われたらまあ、確かに首を傾げてしまうけれど、少しはわたしのことを見てくれているんじゃないかな...と期待してしまう。そんな風に考えるから、わたしの未来を想像するのが最近とても楽しくなってきている。歳を重ねることがこんなにもときめきを覚えるものだなんて、夢にも思わなかった。

20201.1~7(目標、初詣、叫び、運動、ひとり、本、図書館)

新年の目標をたてた。いくつかあり、その中で大きな目標としては英語、韓国語の勉強を続けること。アラビア語もやりたいけれど、文字を読めるようになること、自分の名前と挨拶を覚えるまでにして来年以降から本格的にやっていけたらいいな。そのためにまず英語と韓国語を頑張りたい。何かを継続して頑張りたいことがあると、必然的に生きるを続けることになるのでまだ死ねない。今年もなんだかんだで死にたくなりながらも結局なるだけで、意識せずとも必然的に、生きることを選び続ける年になるのだろう。

2020.1.2
今日は前日と比較して天気が良かったので、初詣に行った。2年ぶりの日本での年越しだったから、久しぶりな感覚が少しでも味わえるのかと思っていたら、全くそうじゃなかった。ニュージーランドでの年越しは、カウントダウンのイベントにも参加せずひとりで静かに過ごしたので、これまでの年越しと全く違っていたためか、年を越した実感がほとんどなかった。それゆえに「年を越す」という区切りを経ないままにこの2年を過ごし、わたし史上初めて2年ぶりに「年を越した」と言えるのかもしれない。年が変わるだけで地続きの日常を生きている事実はそのままで何も変わらないはずなのに、それでもこの区切りは新たな1年を生き抜くための、しなやかさと瑞々しさをいつもわたしに与えてくれる。

2020.1.3
時折訪れる叫び出したくなる衝動と動かずにはいられないもどかしさ、家だと存分に衝動のままに叫び、もどかしくなる前に体を思いのままに動かす。それができる環境がわたしにあるとてつもない幸福、それがわたしだと受け止めてくれるひとたち。わたしがわたしとして死ぬまで生きていくしかない事実に絶望する瞬間よりも、わたしがわたしとして生きていける面白さに目覚め始めた波の方が、今はとても大きくつよい。その波にうまく乗っていけたらいいな。そこから落ちて飲み込まれて溺れる未来に今から怯えてしまうけれど、そのときはそのときだ。未だ見ぬ未来に対して怯えることに、わたしの命を使いたくはない。

2020.1.4
朝から運動した。といってもNHKで放送されていた筋肉体操のサーキット、5分のみだけれど。それでも体を動かすことはやはり気持ちが良くて、凝り固まっていたのは体だけじゃないことを、筋トレにより解されたわたしの体が教えてくれる。もっと具体的に言えば、緩やかに流れていた体中の血液が全身を素早く駆け巡り、酸素をもっと取り入れようと心臓が素早くなり、冷え切っていた体温が内側から熱を帯びたかのように上昇する。そんな体と比例するかのようにして、こころも内側から緩やかに、わたしの体に身を委ねるようにして解されたような気がした。生きるなら、軽やかに生きたいよね。からだもこころも。

2020.1.5
家の中にいてもひとりになりたい。やはりすぐにでも一人暮らしをまた始めたい。家族の存在はわたしにとって大きなものであることは変わりはないし、わたしがいていいとこころから安心して思えるのも家族がいる場所だけだ。ひとつでもそういう場所があると胸を張って言えるだけで、わたしは十二分に恵まれているのだろう。それでもひとりでいる時間はわたしにとって、わたしがわたしとして生きていくためになくてはならない。自らの輪郭を撫で、ひとと自分との境界線を確かめる。自分が自分であるということがいちばんわかるのは、他人の存在があるときだということを、ひとりになり再認識する。

2020.1.6
久しぶりに外に出た。わたしの年齢であればほとんどのひとは、今日から仕事始めだろう。(正月休みがないひと、短いひともたくさんですよね..ご安全に)わたしはわたしでこれから頑張っていくしかない。ひとに合わせたらわたしはすぐに潰れてしまうことはちゃんとわかっているつもりでも、それでも憧れずにいられない。そう、外に出たのは本を買うためだ。あまり家に本を貯めておくこともできないから、ちゃんと吟味して買わねばならない。電子書籍があればそっちを買ったり、図書館で読むことが出来るならそっちで読んだりする。それでもやはり、自分の足で本屋に出向き、棚に目当ての本を見つけてそれを手に取り、レジで精算してもらい自分のお金で本を手に入れるまでの幸福は、何度味わってもたまらずいいもので、わたしはこの幸福を何度も欲してしまう。

2020.1.7
今年初めて、そして何年ぶりかに地元の図書館に行った。ニュージーランドでは友人に呆れて笑われるほどに町の図書館を廻って勉強していたし、本も大好きで読むけれど、何故だか全く足を運ばなかった。昔訪れたままの姿で、懐かしさを感じつつも思っていたよりずっと小さくて驚いてしまったけれど、単にわたしが大きくなったからだとすぐに理解した。それに気がつくことができる場所があることに、何故だかこそばゆい気持ちになってしまって、些細な幸福を感じるよりも先にひんやりとした切なさを感じる。図書館は建物が二つあり、短い渡り廊下を経て倉庫棟と呼ばれるそこに足を踏み入れたとき、埃っぽさが混じった紙の匂いで満たされていた。それはわたしにとって、幸福の類の匂いだった。

2019/11/19 一瞬の温もりに一生すくわれながら生きる

マントを身につけるようにして布団の中に潜り込む。そうすると次第に、自分の体温でじわじわと温かくなってくるのがよくわかる。自分の意志とは全くの無関係なところで、わたしの心臓が休まず動き続けることによって、血液が体中を巡り続けることによって、わたしの体温が布団に伝わり、布団という媒体を介して自分の体が温められている。自分の体温は温かいんだ、と、いや温かくない体温なんてないでしょう、だって「体温」だし、と、これは果たして「温められている」と言っていいのか、体温に意志など存在せず、わたしが「温められている」と思いたいだけなのではないか、と、そんなことをぐるぐる駆け巡り続けるわたしの頭の中は、相も変わらず忙しい。それでも何だか不思議な心地がする。わたしもちゃんとした生命体なんだなと微睡ながら他人事のように思うと同時に、皮肉なものだとも思う。わたし自身はとても冷酷で非情で、温かみなどほんの1ミリも持ち合わせていない人間なのに。


自分で書いた文章を後で改めて読み返してみたとき、「これはわたしが書いたものではない」と眉間にしわを寄せ、嫌悪する自分がいる。文章が紙媒体であれば、それを黒のマッキーで塗りつぶしたり、ライターやマッチで燃やしたりしたくなる衝動に駆られる。デジタルではそれができない。スマホのメモ帳であれば、ゴミ箱のアイコンを押すのみ、クリックたったひとつで消去できる。あまりにも呆気なく、そしてどこか消化不良になる。


自分をさも無害でやさしい人間かのように見せかけようとする自分に気がつくたびに反吐が出て仕方がない。わたしが書く文章だってそうだ。わたしは、やさしい人間なんかじゃない。自分が傷ついた回数よりも、ひとを傷つけてきた回数の方が圧倒的に多い。きっとそうだ。そう思わないと、やっていけない。わたしは生きていけない。ひとを傷つけたのならわたしはしんでしまえばいいと思ってしまうけれど、そうはいかない。生きつづけることが、わたしにとっての地獄であり、罪滅ぼしだ。


たまたまわたしは、今日までひとを殺さなかっただけだ。たまたまわたしは、今日までひとに殺されなかっただけだ。たまたまわたしは、屋根のある家に住み、働く場所があり生活することができているだけだ。たまたまこの時代にこの国にわたしとして生まれ、今日まで生きてきてしまっただけだ。たまたまの繰り返しで、その積み重ねで、ただそれだけのことだ。ただそれだけのことなのに、なぜ毎日こんなにもかなしくてくるしくてむなしくて、どうしようもない空虚感と罪悪感に苛まれるのか。


お腹が鳴る。何か食べたいなと一瞬思いつつ、ふと我に帰るかのように何か食べようと思えなくなる。少し食べないくらいでひとはしなないし、わたしが食べることで、呼吸し続けることで奪われたいのちがあり環境負荷になるゴミが出る。ゴミが出るような食べ方をしなければいいだけだろ。しんだほうが地球のためだよなといつも思ってしまう。でもわたしひとりしんだくらいじゃ全く地球のためにほんの1ミリもならないんだよな。じゃあわたしがいきていたほうができることってあるんじゃない?あるでしょう。そうでしょうよ。


そんな風に思いながら、結局ご飯を食べ、排便し、ゴミを出し、また明日からズルズル生きていくんだろう。非常時以外はペットボトル飲料を買うことをやめてマイボトルを持ち、どんな店でもレジ袋は貰わなくて済むようマイバッグを常に持ち歩き、肉や乳製品を口にする機会を減らす。生きていたくないと思いつつ、わたしはそんなことをする。生きていたくないからこそ、生きていたくないなりにこれからを生きるひとたちのためにできることをしたいといつも考える。矛盾した人間だとつくづく思う。素直じゃないな。これでも希望は持ち続けているし、理想だってある。それがなければ、生きつづけることが地獄であり罪滅ぼしであるわたしは耐えられず、途中で生きるのをやめるだろう。


顔も名前も知らない見ず知らずのひとが、わたしの文章を読みことばを残してくれる。そのことばを何度も何度も読み返し、そのたびに涙が頬を伝い流れる。こんなうつくしいことばを、こんなやさしくあたたかいことばを、こんな冷酷で非情な人間が受け取っていいものなのか、ほんとうにわたしの文章に向けて残してくれたことばなのか、わたし自身ではなくわたしが書いた文章に対してだからわたし自身にむけたことばではない、でも、この文章は、わたしじゃないと書けなかったものだ。わたしが拒否してしまったら、残されたことばに行き場はあるだろうか。冷え切って枯れて、しんでしまうのではないだろうか。わたしは罪のない無垢なことばを、平気で殺せるのか。ことばを残してくれたひとのこころを、殺しているともいえるのではないか。


うつくしいことばに、やさしくあたたかいことばに、涙が流れるのなら、わたしは自分が思うよりそこまで冷酷で非情ではないのかもしれない。少なくともわたしには、うつくしいと思えるこころがあること、やさしさとあたたかさを感じられる感覚があること、こころが大きく揺れたとき、胸があつくなり感情と思いで満たされていっぱいになり、涙となって流れること。そうではないひとが非情で冷酷であるわけではもちろんない。ひとは、もしかしたら非情で冷酷であることが前提なのではないかとも思う。そもそも非情で冷酷であることの何がいけないのだろう。非情で冷酷なひとだけが必ずしも、ひとを傷つけるわけではない。そして、自分自身が全く傷つかないわけでもない。


わたしが今日まで生きてこられたのは、うつくしくてやさしくてあたたかいと思えるものがあることを知ったからだ。それに出会い、触れることにより、喜びを見出すようになったからだ。それらは、わたしにはないものだったからだ。憧れの眼差しのまま、手に入れたくて触れたくて、喜びを見出したくて、渇望するようになったからだ。わたしは、醜き欲深い人間だ。


わたしがそれらに触れたら、一瞬で壊れてしまう。それらに対して愛おしさを感じてしまったら、離せなくなってしまう。そう知ってはいても、抱きしめたくなる。とても繊細で、簡単ではないけれど難しくもなくて、複雑ともいえるし単純ともいえる。やさしさあたたかさうつくしさは、冷酷さや非情さと遠くかけ離れている、わけでもない。


きっと、隣り合わせだ。あたたかさを知っているのは、その逆のつめたさを知っているから。あたたかさに傷つくこともあれば、つめたさにすくわれることもある。うつくしさは時に暴力になり得るし、汚なさにそっと抱きしめられることもある。何にうつくしさを感じ、何に汚れを感じるのか、どんなことにあたたかみを見出し、どんなことにつめたさを知るのか。何がよくて何が悪いかなんて、何が正しくて正しくないかかなんて、まるっきり興味がない。いや少しは興味があるかもしれない。完全無視はできない。それでも、わたしが感じるままが正解だ。あなただってそうだ。それを、決して無視せずになかったことにせずに、自分だけが大切にすればいい。大切にしてほしい。あなたが大切にしたいという思いを、わたしは大切にしたい。大切にしたくないというのなら、それでもいい。わたしがかわりに大切にする。おせっかいだろうけど。

2.019/10/19 煙を吐きつつ共にいきる

f:id:Ikirkashinu:20221105152819j:image自分の中を渦巻くドス黒い煙に、時折自分ごとのみ込まれそうになる。何度掻き消そうと試みても暖簾に腕押しで、煙はわたしの中から立ち去っていってはくれない。でも、立ち去っていってはくれないその理由を、わたしはちゃんとわかっている。煙の存在を、わたしは認めようとせず、いないこと、そして見なかったことにしようとしているからだ。

煙の正体は、わたしの本心だ。もっと言えば、本心がことばに直されてわたしの口から、あるいは手話として指から解き放たれ、ひとに伝わる機会に相見えることは、わたしがいきている間はないと思われるような、わたしにとって憎き醜い本心たちだ。

煙を掻き消したいなら、何が煙を発生させているのか、発生源を突き止めなければいけない。それこそが煙の正体であり、わたしの本心だ。それでも突き止めることに迷いが生じてしまうのは、煙の存在を完全に消し去りたい、とつよく願っていないからだろう。だから煙がどこから、何から発生しているかなど、微塵も興味が湧かないのだろう。

いや、興味はある。それもかなりつよく。ただ、直視する勇気がわたしにないだけだ。相変わらずわたしは、自分が弱いことを認めたくないみたいだ。煙の正体を知ることは、自分の弱さを知り、それを認めることになる。それに何か不都合なことがあろうか、さっさと認めてしまえばいいのに。こんなに自分で自分の首を絞めることもなかったろうに。

ずっと、燃えている。静かに、時に激しく、時に絶え絶えになりながら、わたしの中で何年も燃え続けている。煙の発生源であるこの火は、わたしの負の感情をエネルギーにして今日まで燃え続けてきた。しにたい、消えたい、ころしたい、しね、しね、ころす、しにたい、わたしがここにいる必然性がわからない、ひとりの人間がいるべきはずだった場所をわたしが奪った、わたしの発言や行動のひとつひとつがひとを傷つけている、嫌な気持ちにさせている、不快で居心地のわるい思いを抱かせている、あなたの目の前にいるのがわたしでごめんなさい、ごめん、ごめんね、いくら謝ってもゆるしを請うても、きっと届かないしゆるされない。

ずっと、ゆるされたいと願っている。祈っている。でも、誰から?何から?わたしは、犯した罪を持っているの?それならどんな罪を犯したの?何もわからなくなる。もう少しいきていたいと願うようになってきても、やはり煙がわたしの中で充満し続ける限り、しにたい気配は消えない。何が水となり、火が消えるのだろう。わたしは、この火が消えることをつよく望んでいるのだろうか。

わたし自身がつよく望んでいなくても、この火は消えた方がいい。この火が、この煙が、何か良い作用をわたしにもたらしてくれたか?自分で自分を、ずっと苦しめてきただけではないか?見ないフリを続け、存在を認めないまま生きてきたツケが、今のわたしだ。たすけを請うことも弱さを認めることもできないままいきてきた、今日のわたしだ。

煙が充満すればするほど、呼吸ができなくなる。苦しくつらく、いっそのことなら、としにたくなってしまう。だから火は、消えた方がいい。でも、燃え続ける火の存在を認めることができないまま、火を消す術すら知らないまま、今日までいきてきてしまった。火の在り処も消し方もわからず火の存在を認めることが難しいのなら、まずは煙を自分の中に閉じ込めず、少しずつで構わないから外に出そう。そうするだけで、随分と呼吸がしやすくなるはずだ。そして燃え続ける火は、わたしの負の感情を燃料にして燃えるのなら、消す必要もないのかもしれない。しばらくは共にいきていけるはずだ。

少しずつでいい、今日から始めよう。わたしは自分の弱さと向き合い、憎き醜い本心を抱きしめ、見ないフリをやめる。それはつらく長い道のりだけれど、きっといきていける、気がしている。そう言える根拠がどこにあるのかわからない。けれど、音楽を聴いたり文章に触れたり映画に飛び込んだり、森の中を歩いたり海の光を浴びたり木漏れ日にあたったりすることに、この上ないしあわせと底知れぬよろこびを感じられるのなら、今はそれでいいよな。

2019/8/7 小6の夏休みだけ、ラジオ体操に行かなかった

8月になると、毎年決まって何となく思い出すことがある。小6の夏休みだけ、ラジオ体操に参加しなかったことだ。それまで必ず毎年参加していて、小学生最後の夏だけ、わたしはわたしの意志で、行かないことを選んだ。

おそらくこれは全国的に共通して行われていることだとわたしは認識しているけれど、ラジオ体操に参加したら、その証にスタンプがもらえる。そのスタンプを押す担当を務めるのは、最上級生である6年生だ。わたしは、6年生のおにいさんおねえさんが、わたしを含めた下級生のひとりひとりにスタンプを押す姿に、つよいあこがれのまなざしを向けていた。わたしもいつか、あそこに立ってスタンプを押すんだ、と。

でも、いざ6年生になってみたら、絶望した。自分が想像していた6年生の姿と自分が、あまりにもかけ離れすぎていることに。背丈ばかり大きくなって、見た目だけ6年生らしいけど、中身がとても空っぽなことに。

歳を重ねれば重ねるほど、わたしは自分が自分であることに、自分が自分としていきていくことに、靴底がすり減っていくごとく自信がなくなっていった。小学6年生は、ちょうどその最中にあった。

ラジオ体操が終わると6年生が前に立ち、下級生はスタンプをもらうために並んだ。毎回同じひとに並ぶひともいれば、早く帰るために空き具合を見て並ぶひと、スタンプカードのバランスを考え、もらうスタンプを決めて並ぶひと。わたしはいつも空いている列に並ぶひとだった。

わたしはあんなにも焦がれていた、スタンプを押す担当を務めることに、自ら背いた。夏休み中毎朝、ラジオ体操が始まる時間の10分ほど前に目が覚める。わたしの腰の辺りに差し込む朝日にふと目をやり、すぐ目の前の真っ白な壁に目線を戻す。二度寝しようともう一度目を瞑ってみるが、寝られない。ほんのり蒸し暑くて、肌の表面が汗でべたついているのを感じる。

わたしは、あそこに立つにふさわしい6年生ではないと信じ込んでいた。わたしからスタンプをもらいたいひとなんて、ひとりもいないに違いないと悲観的だった。今思うと、何でそんなこと思うんだ、そんなことあるわけない、と抱きしてあげたいわたしと、そうだね、誰もあなたからのスタンプを望まないだろうね、と嘲笑するわたしがいる。

確かにあそこに立ってスタンプを押す6年生を見て、つよいあこがれを抱いていた。でも、わたしは空き具合を見てスタンプをもらうひとで、誰からスタンプをもらうかなんて考えていなかった。それでもスタンプをもらうことは嬉しくて、空白だったスタンプカードが色とりどりのスタンプで埋まっていく様を見ることに、大きな喜びを感じていた。自分が感じていた喜びを、自分も同じようにあげられるひとだなんて、なぜだか微塵も思えなかった。

わたしは、スタンプを用意していた。今ではどんなスタンプだったのか、もうすっかり忘れてしまったけれど。一度も使われることなく、だれのスタンプカードにも顔をあらわすことのなかったスタンプを見て、わたしはつよい罪悪感を感じ、自責の念に駆られたのを覚えている。わたしに選ばれてしまったばかりに、日の目を浴びることなく夏休みの終わりがすぐそこまで来ている。ほんとうだったら君は、だれかを笑顔にできるスゴイヤツなのに。

わたしはスタンプを手に取り、空白のままの自分のスタンプカードに、押してみた。やはりどんな表情のスタンプだったのか思い出せないけれど、スタンプを押す6年生につよくあこがれていたわたしが選んだんだから、きっととびきりステキなヤツだったんだろう。ごめんなさい、ごめんね。

今なら、わたしを嘲笑するわたしに対して、そんなことないとつよく反論できる。あなたはあそこに立つにふさわしい6年生で、スタンプを通してわたしが感じていた喜びを同じようにあげられるひとだと、真っ直ぐ目を見て伝えられる。考えすぎじゃないよ、そういうところもあなたのいいところだと、抱きしめてあげられる。でも、考えすぎは時に毒になってしまうから、好きなことに目を向けること、好きなものに触れることを忘れないで、それらはちゃんとあなたをたすけてくれる、と教えてあげられる。大丈夫だよ、大丈夫、と、背中をさすってあげられる。

今も全国各地で、夏休み中毎朝ラジオ体操が流れているのだろうか。眠い目をこすりながら、少し怠そうにしながら、お腹を空かせながら、寝ている間に硬くなったからだをラジオ体操でほぐしているのだろうか。真っ白なスタンプカードは、色とりどりのスタンプで埋まってきているだろうか、あるいはそうでもないだろうか。ラジオ体操に行かないまま、のんびり寝ているひともたくさんいるだろうか。

今だったら胸を張ってスタンプを押せるかと言われると、少し迷う。自信はないままだけれど、ひとりじゃないことはわかる。わたしには、だれかを笑顔にできるとびきりステキなヤツがついてるから。